「○○のある生活」ってフレーズ、もしかして流行してますか?
ふと気づいたことがあります。
例えば「花のある生活」「推しのいる生活」「カメラのある生活」・・・・「○○のある/いる 生活(暮らし)」というフレーズ、いたるところにありませんか?最近、世の中じゅうにこの構文が溢れかえっているのです!!
Instagramには「#犬のいる暮らし」というハッシュタグがつけられた投稿が約1534万件(2023年4月19日現在)。また株式会社ツムラは「漢方のある暮らし」というTwitterアカウントを運営しておりそのフォロワー数は約17.4万人にも上ります。(2023年4月19日現在)「推しのいる生活」と聞いてピンとくる方もいるかもしれません。
これは単に「○○の存在」を意味しているのではなく「○○を主役にした生活」を考えさせるのだと思います。”○○がもし自分の暮らしの中にあったらどうなるだろう・・・”と受け手にとっての意味を自然と想像してしまうのです。つまり○○がその人自身の生活へと落とし込まれ、自動的に価値が定義されるのではないでしょうか。また、○○の部分に何を置いても成立するために汎用性が高いのです。だからこそこの構文が知らず知らずのうちに広まり受け入れられているのだと推察します。
ここまで考えて、各々「○○のある生活」の○○に何が当てはまるのか・その生活にどんな価値を感じるのか知りたくなりました。そこで同期のHさんにインタビューしつつ、私自身のことも踏まえて考えてみることにしました。
Hさんの場合 ~山登りのある生活~
Hさんは就活の最中から山登りを趣味として取り組み始めました。小さいころから親に連れられてちょくちょく登ることはあったものの自分から~というのは大学4年生のころからだそう。いくつも落とされる面接、パソコンに向かい続ける毎日、おまけにお金はない・・・。そんな日常とバランスを取るべく山へ向かうようになりました。
そして社会人になった今、業務・締め切り・確認事項と色々なことに追われる日々を過ごしています。会社のある都心に繰り出せば終わりのない作業が降りかかってきます。でも自分の代わりはいくらでもいるし、なんなら自分がいなくたって会社は回っていくのです。目まぐるしく過ぎていく毎日の中で、自分がこの環境で必要とされる理由がどうしても曖昧になっていくのでしょうか。
しかし、山を登れば必ず山頂という終わりがやってきます。ゴールにたどり着き「これをやりきった」という達成感を得られるのです。つべこべ考えずとも、一段一段確実に登っていくだけ・そこにあるものがすべてというのが魅力なんだそうです。また山中ですれ違う人々とのコミュニケーションも心温まるのだとか。頂上を目指すという同じ目標を抱えた見ず知らずの人との挨拶は、普通に生活している中では得られない繋がりを感じられます。名前も生い立ちも知らない人同士が「あともうちょっとだよ」などと応援し合うことで生まれる「分け隔てのない思いやり」も”ただそこにあるがまま”ということなのでしょうか。
Hさんにとって「山のある生活」とは、脳みそを解放しあるがままの自然に身を任せることで、自分が自分である意味を取り戻していけるという価値があるのかなと想像しました。
筆者の場合 ~運動のある生活~
私は小さいころから今までずっとテニスを続けています。特に働き始めてからは、なぜか新しいことに挑戦したい!という欲が湧いてきてゴルフやSUP・ボルダリングなどを細々と・・・。お世辞にも運動神経が良いとは言い難い私がどうしてスポーツばかりに手を出すのか自分でも不思議に思っていました。
Hさんとは少し違いますが、社会人になって常々感じているのは自己が外的要因に大きく左右されてしまういうことです。仕事での取り組みは良くも悪くも常に誰かに評価されます。自分の”点数”が他者に委ねられているということは、自分のことを自分で認めにくいということでもあります。
しかし運動は違います。自分の中でコツをつかむ瞬間が必ず存在します。「あ、できたぞ」と感じるのは己の内側にあって、そこには他者が介在しません。テニスで言えば、「今まで取れなかったはずのボールに追いつくことができた!」という感覚は私の中だけで分かることなのです。
自分の目線から自分に満足したい。自己の成長を感じてがんばりを褒めてあげたい。私にとって「運動のある生活」とは、自身の軸を作り上げ、揺るがない自己を強固にしていけるという価値があるのかもしれません。
どうにもならない、持て余した気持ちを解消したい
Hさんと私の共通点として、仕事で抱える悩みのちょうど真裏にあるのが「○○のある生活」の価値なのだと気づきました。私たちの悩みの方向性は少し違いますが、「自分は自分のままでいいのだ」と100%では信じられない”不安”をどうにかしたいということなのだと思います。
多かれ少なかれ誰しも不満を抱えながら生きていて、しかもそれらをすべてその場で解決することはなかなか難しいはずです。どうにもならないとわかっていながらも持て余している気持ちを別の環境で解決するために、「○○」を楽しむことで自分を労わっているのでしょう。
きっとほかにも「○○のある生活」の価値は存在するはずです。不満への慰みとしてだけではなく、ポジティブな気持ちが根っこにある場合も考えられるでしょう。
皆さんの生活にはどんな「○○」が存在していますか?その存在価値は何ですか?ぜひこれを機に考えるきっかけになれば嬉しく思います。そして私はこの「○○のある生活」構文がこの先も量産されていくのか、その行く先を追っていきたいと思います!
文:シルホド!note編集担当 飯野